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印刷物2

 投稿者:おかも戸  投稿日:2008年 1月31日(木)11時49分58秒
編集済
  死のどれくらい前まで新聞を取っていたかは忘れたが、月に1度の集金については、食品や日用品のように品名と値段だけの箇条書きではなく、短い文章でしたためられていた。そして必ず、支払うとくれる薄い冊子について言及してあった。例えばその冊子が「いきいき毎日ライフ」というタイトルだったとすると、「○月○日 △△新聞集金来る。いきいき毎日ライフもらう」といった具合で、この薄い冊子を母親は少なからず楽しみにしていた様子がうかがえた。

なぜなら、集金人がこの冊子を渡し忘れることが度々あったらしく、「いきいき毎日ライフもらえない」「いきいき毎日ライフ忘れられる」「いきいき毎日ライフ今月も忘れられた」等々の記述が散見されたからだ。といっても記事についての感想が書かれていたわけではない。しかし、母親はかなりこの薄い冊子に執着していた。このことだけは確かである。あるいは、もらえる権利のあるものをもらえたか・もらえなかったか、そのことが、拒否しているはずの社会に自分の存在が認められているか否かに関わる一大事であったのかもしれない。それでなければ、代金に含まれているはずのものなのだから、代金分はきちんといただきたい、という気持ちかもしれない。

いずれにしても、もらえる・もらえない、そのことに一喜一憂する割にはもらえなくてもひと言も抗議や催促の言葉を口にせず、日記に短く悔しさを書きとめてあきらめ続けていたのが、実にこの人らしかった。そんなわけで彼女が実際にこの薄い印刷物を楽しみにしていたかどうかわからないのだが、私は楽しみにしていたと勝手に思っている。~つづく~
 
 

謹賀新年

 投稿者:おかも戸  投稿日:2008年 1月 2日(水)13時00分31秒
  あけましておめでとうございます。
皆様にとって今年も・今年は、よい年になりますように。
生来の怠け癖に加え、
年末のあわただしさに負けっぱなしで年賀状未だに書けず。
初夢は、人質にとられ、四六時中生命の危険にさらされながらの犯人との長旅。
途中でうっすらこれが夢であることに気づき、
人質生活からの脱出を図らんと飛び起きて、生きていることの有難さを味わいました。
おととし死んだ谷六(ゴルハム・♂)にはずかしくないよう、
ねずみ年の今年1年しっかり生きたい、とぞ思ふ。とぞ思ふ……。
 

ミシュラン

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年11月20日(火)20時51分0秒
  東京に三ツ星8店だってね。
ミシュランといえば、今は亡き某月刊誌の10年以上前の連載に「あかりのミツュラン」というのがあった。これは有名照明デザイナーのM出薫氏に様々なあかり(商業施設の店内店外、街なかの自販機、白熱灯率と蛍光灯率にあからさまな格差が現れている超高級マンションと庶民アパートが並び建つ夜景、コンビ二の照明、ライトアップなど)を論じ、星をつけてもらう、という企画だった。
都合3年くらい続いたと思うが、連載2回目にして、当のミシュランから苦情があった。ミシュランの名を使わないでもらいたい――。よくこんな3万部程度の小さな雑誌にまで目を光らせていることよ、と驚いたが、もう連載は始まっちゃってるし、これ以上のタイトルはない。苦肉の策で、ミシュランの「シ」を「ツ」に替えた。2行目のタイトルを見てほしい、ちゃんと「ツ」にしてある。シとツの区別がつかなかったわけではありません。これでミシュランからは容認され、一件落着。その経緯については、担当者がちゃんと編集後記で断りを入れた。これが私のミシュランの思い出。
 

印刷物1

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年10月 2日(火)00時22分38秒
編集済
  餓死事件というのは日本のあちこちで今もポツリポツリと起こっている。生活保護を打ち切られて飢え死にしていく人もあるが、プライドのためにあらゆる援助を拒む、もしくはプライドとは無関係、他者に助けを求めず自閉した挙句に飢え死にする者もあって、自閉の後者には何か宗教的なものすら感じてしまう。別に彼らがある種の宗教の狂信的な信者である、ということではなくて、他者を拒否するマイナスの精神力に畏怖の念に似たものを抱いてしまう、ということだ。

10年くらい前に70代の母親と40代の病気の息子が池袋のアパートで餓死した事件が話題になった。そしてその母親が死の数日前までつけていた数年にわたる日記が出版され、これもまた話題になった。私は興味をもったが本屋に行けないでいるうちに忘れ、その本を実際に読んだのは3~4年後、函館の図書館の書架に偶然この本を見つけてからだった。

後日購入したものの、今はどこかに紛れてしまって探す気力もないので曖昧な記憶しかないが、その日記は家計簿も兼ねていた。数日に1度の食料品の買い出しは数十円の菓子パンや出来合いの惣菜で占められ、買ったものすべてを値段とともに書き出してあった。郵便局に行った、スーパーに行った、新聞の集金が来た。そんな日常の出来事について事実だけが短く淡々と綴られていた。

息子がなんの病気だったかどこにも記されていなかったが、病院にはまったく行っておらず、寝たきりだったようだ。下着を換えてやると必ず「○○(息子の名前)のパンツかえる」と日記にメモしていた。ほぼ一定の間隔をもって繰り返し記されるこの一文で判断するに、下着の換えは夏を除いては3~4日に1度であったようだ。息子についての記述はほぼ下着の交換に尽きていたように思う。また、時に被害妄想じみたことが2~3行書き付けられていることもあって、その孤独の深さには、無学の年寄りの書く拙い文章の哀切さと相まって異様な迫力があった。日記の大部分を占める平坦な日常生活の羅列さえも妙な磁力を放っている気がした。しかし、世間に対する怨念のようなものはほとんど感じられず、絶海の孤島に母子ふたりで暮らす人のような印象が残っている。最初からあらゆることをあきらめている感じ。緩慢な心中。そんな日記の文章のいちいちは様々な感情を呼び起こしたが、いちばん心に残っているのが、月に1度の新聞の集金についての記述だった。~つづく~
 

おばあちゃんのお店の前身

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年 9月28日(金)08時55分48秒
編集済
  わ~、虎屋伊織ってすごいんだねえ。創業元禄15年て、1702年のことだよ。
以下のHPに掲載されてる饅頭切手(商品券)と同じものがおばあちゃんのお店に飾ってあったよ。
http://www.arista.co.jp/story/museum/others_koshiryo.html

で、鶴屋八幡の前身も虎屋伊織だってね。
http://www.turuyahatiman.co.jp/column/shiryo-kan/column_3.html

あの羊羹で有名な虎屋は虎屋黒川っていうんだけど、あれは京都出身の別物で歴史は1500年代以前に遡る。虎屋伊織のお店の様子は、摂津名所図会にも載っている。
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/japan/marking/A37_w1.html
 

私はkimuraさんのファン

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年 9月28日(金)07時01分18秒
  早速読んでくれてありがと~。ほんと、当日会えるといいんだけどね、おばあちゃん。土日休みでも開けてくれと言う客があれば開けますよ、なんて言ってたけど、当日電話して「お菓子買いたいから開けといて」って頼んで、で、なんか買って、話をさせちゃえ、と思ってもいるのですが、いきなり大勢であの小さなお店に入っていったらびっくりしちゃうかなあ、とかグチャグチャ考えてます。話をしてくれ、って頼むから断られるのであって、いかにもついでな感じを装えばOKとは思うんだけど、おばあちゃんをだまし討ち(?)するみたいで申し訳なくてね。。。。なんかいい方法ないやろか。

わ~~~、kimuraさんにほめられた~~~。難しい込み入った話でなければ私の脳味噌の記憶に関する部分はもの凄い力を発揮するのです。これが小難しい話、興味のわかん話となると、おぼえてないどころか最初から聞いてない。話をされてるあいだじゅう、脳味噌がツー・ツー・ツー・ツーと言うだけで、外部からの音声を右から左へと受け流すムーディーかつやま状態と化してしまうのです。
 

おばあちゃんのファン

 投稿者:ただもん  投稿日:2007年 9月28日(金)02時03分55秒
  当日、このおばあちゃんに会いたいなあ・・・。街の歴史そのものなんやねえ。立ち話の内容を頭でメモってこれだけ書けるおかも戸さんも、ただもんやないけど。また続きかいてね。  

安堂寺橋通りカド・饅頭屋のおばあちゃんの話追加

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年 9月27日(木)21時32分49秒
編集済
  ●おばあちゃんの10歳上のお姉さんのご主人は支那事変(日中戦争1937~1941年12月に太平洋戦争へ発展)で兵にとられ、傷痍軍人になって戻ってきた。姉は10歳違うだけで大変な苦労をした(お姉さんは21歳で嫁入りしたというから、結婚は1939年=昭和14年。7人の子供は戦中戦後にわたってもうけたということだろう)。

※前の投稿で、おばあちゃんが帰り際に私に饅頭をくれようとしたが固辞した、と書いた。この饅頭は個別包装された日持ちする饅頭で、まだ賞味期限まで間のある商品であった。残り物の始末をしようとして私にくれると言ったわけでない。

※仲間内しか見られないとはいえ、個人情報満載といえば満載ですね。一両日中にぼかします。
 

安堂寺橋通りカド。饅頭屋のおばあちゃんの話4

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年 9月27日(木)21時25分52秒
  ●大阪城まで昔は歩いてよく行った。
(今現在はおばあちゃんは腰が曲がり気味で、もとから小さな人だったらしいが背も縮んでかなり小さい。120~130センチくらいしかないのではないか。200メートルほどしか離れていない銅座公園の桜も歩いて見に行くことかなわず、店のカドに立って眺めていることしかできない、と2~3年前にこぼしていた。足取りは弱い。私はおばあちゃんに頼まれて、手をつないで長堀通りの横断歩道を渡ったことがある。車が多くて怖いのだそうだ)

●長堀通りには昔市電が走っていた。

●舅も姑も立派な人だった。戦中戦後の物資の厳しい時代をよく乗り越えてきたと思う。それに較べたら私はラクをさせてもらった。店の壁には額に入れた昔の商品券が飾ってある。虎屋伊織が発行した商品券である。その他、高麗橋西詰で創業したころの店の様子を描いた絵も飾ってある。そこには「虎屋春繭店」とあるので、この「虎屋伊織」はのれん分けされた店なのではないかと思う。春繭店のことをきいたら、「いや、それはイオリと読みます」といわれ、要領を得なかった。

※思い出せるだけ思い出して書いた。また思い出すことが出てきたらメモしていくつもり。このお店、土日は休みにしていることが多いが、おばあちゃんはどこに出歩くでもないので家に居るそうだ。足が弱いといいながら、シャッターは自分で開け閉めしていてすごいと思う。不定休であり、開店時刻閉店時刻もともに定まってない。おばあちゃんの体調次第というところか。1時間ほどの立ち話でこれだけのことをきかせてくれながら、まち遊学で話をしていただけないか頼んでみたら、「私みたいな頭の弱いモンはあきません」と遠慮されてしまった。残念なことである。200円の水羊羹4つ+海老煎餅3袋パック150円を2つ購入。〆て1100円。感謝するのはこっちなのに、「おかげでなつかしい話ができた」とおっしゃって、饅頭をくれようとするので固辞。「また買いに来ますのでその時またお話聞かせてください」と言って辞する。17時ごろ。
 

安堂寺橋通りカド・饅頭屋のおばあちゃんの話3

 投稿者:おかも戸  投稿日:2007年 9月27日(木)21時04分7秒
  ●「虎屋伊織」は元禄15年の創業で、もとは高麗橋西詰にあった明治初年に京町堀に移り、大正13年より現在の場所で営業。おばあちゃんには子供はないが、舅姑夫婦にも子がなかった。主人は10歳のときに福井からこの家の養子に来て、養子に来たばかりのころは福井のある北のほうに向かって何度も泣いたという。舅は石川の人、姑は和歌山の人。大阪出身のおばあちゃんとは昭和24年に見合いでいっしょになった。

●おばあちゃんは10歳年上の姉がいて、7人の子を産み育てた。石川県に疎開して、着物を食べ物と物々交換したのですっかり着る物がなくなってしまい、大変な苦労をした。10歳年齢が違うだけで結婚生活の苦労は雲泥の差で、私は楽させてもらったと思う。おばあちゃんは末っ子で、両親を早くに亡くしたので、旭区赤川町のおじさんの家に引き取られた。天王寺区の郵便局の保険課で事務をとっていたが(お父さんも昔ここに勤めていた。あるいはおじさんだったか?)、大きな郵便局で有名だった。おじさんがご主人を紹介してくれ、ろくな嫁入り道具もないのにもらってくれた。

●ご主人は結婚後3年くらいしてから謡曲を習い始めた。山本能楽堂に出たこともある。おばあちゃんは毎朝5時に起きて着物にエプロン姿で働いた(割烹着ではない)。職人を使っていた時期もあったが、自分で常用まんじゅうの薄皮の原料の山芋をすったり、ワラビ餅をつくったりした。嫁いだときは<この柱まで>しか店(家)がなくて、背の高い人は南北にまっすぐ布団を並べて寝られないな、などと冗談めかして言っていたが、あとで店(家)を<あそこまで>広げた。今も奥に鍋が残っているが(作業場が残っている、という意味か。見せてもらうのは気が引けて見てない。今度機会があったら見せてもらおう)、現在はもっぱらよそから仕入れたものばかり並べている。何年も前にお赤飯を届けにいったとき転んでしまい、赤飯は無事だったが右肩を捻挫してしまい、以後、右腕の調子が悪い。国立病院(法円坂)の先生にみてもらったが、無理して動くなといわれた。
 

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